日米OSDN離合集散、苦闘の21年史

さて、ついに退職エントリだ。私は米国のオープンソース・ムーブメントを日本で再現するためのコアを作るために民間企業へやってきたはずだった。それから21年、随分と長い航海になってしまったが、結局様々な尻拭いを続けてきたという感慨ばかりが起きてくる。一つの歴史として書き残すいいタイミングなのでその苦闘を振り返っておこう。

なお、長く付き合いが続いてしまう米国側法人は下記のように名称が変化している。なるべく頭に米国と付けて日本側法人と区別しやすいように記述するが、突然名称が変わったりするので注意してほしい。多くがもはや消滅した法人のことなので、さすがに一気読みするような酔狂な人はほぼいないと思うが。

VA Research      Andover.net
   ↓         ↙︎  (VAによる買収)
VA Linux Systems
   ↓        ↘︎  (Andoverから社名変更)
VA Software        OSDN Inc.
   ↓                   ↓
SourceForge Inc.        OSTG Inc.
   ↓             ↙︎   (OSTGが親会社に取って代わり社名変更)
Geeknet
   ↓     ↘︎
ThinkGeek        (SourceForge.net, Slashdot.org等がDice社へ売却)
   ↓
GameSpotに買収され法人消滅

LinuxWorld 2001から20年間使い続けた看板

目次


1. いざ東京へ (1999年-2000年)

ここから括弧を開くとしよう。
1999年、私は悩んでいた。このまま金沢の大学でぬるく勤務を続けていていいものかと。

前年に生まれたオープンソースという概念はLinuxを旗印として米国のテックビジネス界に殴り込みをかけていた。それにより既に膨れ上がっていたドットコムバブルにさらなる燃料を注ぎ込む大きなエネルギーにもなっていた。まだまだヒヨッ子ではあったが、米国のオープンソース企業には世界中から開発者が結集しつつあった。

当時の米国のオープンソース界隈の状況は米VA Linuxの崩壊シリーズに書いた通りだが、その一方、日本の状況は米国に釣られて浮かれてはいるがせいぜい出版社を中心にこじんまりとしたLinux distroの円盤ビジネスが立ち上がっていた程度だった。1998年にはLinux Conferenceを京都で開催し、1999年には日本Linux協会を立ち上げ、ユーザーコミュニティから企業まで幅広く集めてみたものの、あと1ピースが足りないと毎日のように考えていたのである。オープンソース開発者がどんどん集まってくるような求心力のある企業が日本にも必要だと。当時は国内のIT大手各社から新興零細、そして外資と様々な企業の人間と会う機会があったが、日本国内においてはLinuxという当時のバズワードにチップを賭けようとする者達は多かったものの、オープンソースに賭けようとする企業や人に出会うことは一切なかった。

当時の私が理想としていたのは先ずCygnus Solutionsだったが、ビジネスモデルを含めて理にかなっているとは思っていたものの扱う領域が狭いように感じていた。もっと幅広く、もっと上位のレイヤーまでも含めた領域を扱い、そのためのオープンソース開発者を集めるように企業はないかと。そこで目に止まったのがVA Research社だった。すぐ後にはVA Linux Systemsと社名変更するその会社には有名な開発者が入社したというニュースがしょっちゅう流れ、Eric Raymondが取締役に加わり、オープンソースという言葉を生み出した企業らしい強烈な勢いを見せていた。VA Linux社はハードウェア会社だったのだが、とにかくオープンソース開発者をかき集めようとする姿勢は目を引くものがあった。

当時は輝いていた

日本にVA Linuxのようなオープンソース開発者を結集させるような会社はないものか?ないならば作ればいいのではなかろうか?と悶々と大学のある金沢と日本Linux協会がある東京を往復するうち、大学勤務を継続することに意味を見出せなくなってしまった。結局2000年6月で大学を退職し、しばらくは執筆や出来たばかりの日本のRed Hat社の手伝いをしたりしていたが、夏を過ぎた頃オファーがやってきた。VA Linux Systems Japan株式会社を設立しようとしていた住友商事からだった。

実は1999年のLinuxWorldにて既に米国VA Linuxへの出資を果たしていた住友商事がブース出展していたのだが、私はそこでVA Linuxの姿勢を褒めちぎっていったらしい。本当はその当時のことは覚えていないのだが、新型のサーバーハードウェアを見ることもなく、ただVA Linux社のオープンソースコミュニティとの関係や求心力を褒めていき、かなり上から目線で日本法人を作るなら国内のオープンソース開発者を集めろと住友商事の人間に説教していったらしい。こんな奴は他にはいなかったようで、その後、住友商事から何度か呼ばれ、日本法人を作るならこうした方がいいといろいろ話してるうちに結局 VA Linux Systems Japanが設立されてすぐの2000年11月に入社することになったのである。ということで、VA Linux Systemsのような会社を日本に作るためにVA Linux Systems Japanに入ることになった

当時はオープンソース界隈でコアとなる会社を作り上げたらさっさと金沢に戻ろうと考えていたので、東京へは平日だけで金沢には週末に帰るという生活を始めた。金沢と東京を年間60往復以上するという奇妙な生活だった。会社があった新宿住友ビルからはほぼ真下に見える西新宿にワンルームを借りたが、家具等を買う時間もなかったので結局一年間、灯りは玄関灯のみでカーテンすらもなく全く家具のないフローリングの部屋でコートに包まれながら寝る(数ヶ月後に金沢からマットを送った)という生活をすることになった。しかし、それが苦にならないほど燃えていた。


2. VA Linux Systems Japanの始動 (2000年-2001年)

米国VA Linuxは非常にゆるい会社だった。一方、日本のVA Japanの方は実はジョイントベンチャーであり、事実上住友商事傘下でもありNTTコムウェア等の資本も入れていた。これは米国側のサーバーハードウェアをパートナービジネスで販売することを企図していたことからなのだが、米国VA Linuxは日本側の社員も普通の一般社員のように扱っていたので私は様々な情報にアクセスすることも簡単にできた。

当時はとにかく米国側の内部を調べ上げ、オープンソースコミュニティとの関係性を含めて彼らのやり方をいかにして日本に持ち込むかを考えていた。ただ、思っていたよりも彼らの会社は雑だった。取締役であったEric Raymondの著作のフレーズを借りれば、まさにバザールだった。

Slashdot.orgを運営していたAndover.netを買収した直後ということもあったが、ほぼラックマウントサーバーだけの売上に頼っていた会社にしては、製品を作り上げる方向性にまとまりが欠けていた。それでも2000年秋までは順調に売上が伸びて1億ドルを突破しており、外形的には問題があるように見えず、不安はあったものの彼らの技術陣を見れば優秀な人材を集めていることは明らかであり、彼らの個性と思うようにしていた。

ただ、住友商事側も米国側への投資からの長い付き合いからいくばくかの不安を感じていたのだろう。特に文書化したわけではないが、社長室で毎日のように雑談を繰り返すうちにVA Japan側では下記のような方向性のコンセンサスができていたように思う。

  1. ハードウェア販売は直販はせず、パートナー経由に注力する
  2. 数年でLinuxラックマウントサーバーはコモディティ化してDellやHPに負けると予測し、日本としてはソフトウェアに注力
    • Linuxカーネルを含めてインターネットサーバー構築において重要な要素ソフトウェア技術の人材を集める
  3. オープンソースコミュニティのコアになるような活動を行う

1と2に関しては問題はなさそうだった。特に2に関してはT部長というLinuxカーネルの面倒を見させておけば間違いはないだろうという人材が早々に加わりそうという目処が立っていたので安心感があった。しかし、最後の項目は少し困った。その年に米国VA LinuxがAndover.net社を買収するという暴挙をしでかしていたのだ。夏にはVA Linux側からLinux.com、Themes.org、そしてSourceForge.netがAndover側へ移管され、Slashdot.org、Freshmeat.net、ThinkGeek.com、AnimationFactory、QuestionExchangeなどと共にオープンソース系の(当時としては)巨大ネットワークが構築され、このネットワークをOpen Source Development Network、つまりOSDNという名前の子会社に仕立てあげていたのである。これと同じことはとても日本ではできそうもないが、この米国OSDNを日本でも展開できないかという話は米国側からもあったし、日本側としても方向性に合致しているように思えた。

開始当初のSourceForge.net、ircやftpという文字が見える

米国VA Linuxも住友商事も当初はSourceForgeで何かできないかと考えていたようだったが、私は先ずSlashdot.orgに目をつけた。当時のSourceForge.netはコミュニティに完全に開かれたバザールそのままの開発をしており、国際化も一部で進んでいたので単純にセカンダリサイトを作ることに意味がないと考えたからだ。故に日本側からはSourceForge.netの国際化に手を差し伸べ、開発サイトとしてグローバルでなければならないという想いもあった。他のLinux.comやNewsForge等の記事コンテンツ主体のサイトについては手っ取り早いだろうがコミュニティと一体化するようなものでないので弾いた。しかし、Slashdotであれば日本側で独立したサイトでも問題ないし、当時のオープンソース業界で発生する様々な事件に大きな影響を与えていた仕組みを特に目立ったオープンソース界隈の議論の場がなかった日本に持ち込むとどう化学変化が起きるのだろうかという期待(ただの興味だったのかもしれない)もあった。

そこで、サクッとSlashcodeをダウンロードして動作させてみたところ、国際化は意識されていないが日本語化はさほど問題ないように思えた。それだけチェックした後、即座に編集長として頭に浮かんでいたある男に連絡を入れた。電車内でCD-ROMを拾ってLinux界に入ってきたオリバー・M・ボルツァーである。米国のオープンソース界隈のGeek層の感覚を理解できるITオタというのは当時は希少だったし、それでいて彼には編集者としての経験もあった。彼はすぐに快諾してくれたが、私はどうやってでも彼を押し込むつもりだった。

順番としてはおかしいが、そこまで決めた後、私はSlashdot.orgの創始者の二人に会いに米国へ向かった。いつもLinuxイベントではソファを持ち込んでモヒカンやら髭面のGeek達に囲まれてくつろいでいるだけのRob “CmdrTaco” MaldaJeff “Hemos” Batesの元へ駆け寄り、そっと秋葉原の中央通交差点近くのショップで買ったアニメのセル画を手渡した。店員に薦められるまま購入したので記憶が曖昧だが、確か天地無用だったと思う。実は当時はまだ日米両社間でライセンス契約書などというものはなく、今思えばこれが彼らにとっての契約書の代わりだったのだろう。

その後、オープンソースにアツい想いを抱いてやってきた安井さんに開発と運用を任せ、Slashdot Japanが開始されることになる。今振り返ると当時声をかけた人達は今ではみんな超偉い立場に置かれていて、人を見る目はあったのだなと思わされる。自分はほとんど変化がないのだが。


3. フリーフォール (2001年)

日本側で会社を設立後すぐの2000年の終わり頃から年明けにかけて幾つかの予兆はあった。株式市場は以前にも増して荒っぽい動きを見せ、ドットコム企業と言われている企業にポツポツと破綻するところもでてきていた。米国のハードウェア販売が軟調になってきつつあることも伝わってきていたが、日本側はそもそも2001年になってからやっとパートナー販売網の構築を開始しようとしていた所でその作業に忙殺されており、さほど大きな問題だと受け取っていなかった。

そして、2001年5月の日本のLinuxWorldではラックマウントサーバー製品の発表も済ませ、Slashdot Japanも正式に開始を発表し、全てが順調だったと思っていた。来日していた米国のCEOもニコニコだった。

その数週後、米国VA Linux Systems社はクラッシュした。

ドットコムバブルの終焉とVA Linux Systemsの崩壊

破綻の経過や破綻直後の何もかも空虚な様子は上記記事に詳細を書いてあるので興味がある人は読んでほしい。ようするに米国VA Linux社の顧客のほとんどは新興のドットコムベンチャーだったのである。それらの会社がどんどんVA Linuxサーバーを購入することでIAラックマウントサーバー市場でLinuxサーバーのみなのにシェア一位争いをするという成長を見せていたのだが、それらの会社が幾つか破綻すると連鎖が発生し、VAサーバーの新中古品が溢れ、どこも新規にVAサーバーを買わなくなっていたのである。

最終的に米国VA Linuxは上場企業としては継続できたものの残された事業は、事実上 米国OSDNだけだった。自慢のオープンソース開発者陣はほぼ全員が散り散りとなった。その時点で米国OSDNは子会社であり、本体は何もない空っぽである。SourceForge.netは当時としては競合するサービスがほぼないことからどんどんユーザーが増えている状況だったが、OSDNというメディア事業全体にとってはただの大きなトラフィックは生むが大きな負担でしかないサイトだった。そもそもがVA Linuxのオープンソースコミュニティへの支援を象徴するためのサイトでしかなかったわけで収益なぞ考えてもいなかったからだ。

米国VA Linux側では子会社であるOSDNのブランドであるSourceForgeを利用して企業向けのプロプライエタリなツールを新規に開発するという計画が出され実行された。SourceForgeのオープンソース版を活用するのであれば理解できたが、ブランドだけを利用して独自の完全なプロプライエタリツールを売り出すというコミュニティへの背信的行為かつ人のフンドシで相撲のような振る舞いがうまくいくとはとても思えなかった。ただ、当時の米国のIT市場はオープンソースが全て悪いといった論調も多く、その根本原因である米国VA Linuxはオープンソースという言葉を全て封印しなければならないという株主のプレッシャーを受けていたわけで、様々な矛盾を抱えながら生存だけは許されていたのである。

なお、2001年9月14日開催のLinux Kernel Conferenceに米国VA Linuxでクラッシュに巻き込まれたTed Tsoが講演に来てくれるはずだったが、直前の航空機同時多発テロの影響でボストン空港が閉鎖されたためにキャンセルされた。今思えばその後の日米の関係のようでもある。


4. VA Linux Systems Japanの独立 (2001年-2004年)

日本側のVA Linux Systems Japanとしてはこの時重大な岐路に立たされていた。それなりに多額だった資本金の多くはまだ手付かずだったが、米国側のハードウェアビジネスが消滅した以上、米国VA Linuxも含め近い間に各社が出資を引き上げることは明らかだった。事業としてもパートナーにほぼテスト的にサーバーを販売していた程度であり、そこから撤退費用もかかる。ハードウェア以外の事業で手がついていたものはSlashdot Japanだけだった。当時もSlashdot Japanは私の傘下だったわけだが、初年度の売上は確か一度だけテスト的に販売したバナー広告一件(この会社は今ではオープンソース関係でも有名な会社となっている)だったと思う。今改めて思うが、このSlashdot Japanの開始が数週ほど遅れていれば、現在運営されているサイト群は全て最初から存在しなかっただろう。

この状況下なら普通であれば法人の解散を選ぶのだと思う。実際、住友商事の上層部ではお葬式の話が出ていたとは聞いている。社長も住友商事からの出向であり、他の出資各社からの出向者も多かったので解散を選んだほうが圧倒的に簡単だった。正直に言えば、私も自宅のある金沢に戻る可能性が高いのだろうなと思っていた。

だが、当時の上田社長は納得してなかったのだろう。米国で多くのオープンソースベンチャーをまわり、そもそもが米国VA Linux社への投資も決めた当事者であり、国内のIT大手からも様々な意見を聞いていた感触から、少なくとも日本ではこれからエンタープライズ領域を含めて波がやってくると彼は見ていた。ドットコムバブルが弾けた米国はしばらくどうにもならないが、国内はこれからだろうと。それに加えて、諦めが悪い私のような人間も毎日のように近くでオープンソースはここから!とか言っているので感化されたところもあるのかもしれない。

幸いなことにNTTも似たような感覚で状況を捉えており、住友商事に付いていくという言質を得たところで VA Linux Systems Japanは、オープンソースのコアとなる会社を日本で独自に目指すことに決めた。

これを後押しするようにとある企業からミッションクリティカルな領域で必要なプロダクトにLinuxを使用する計画が持ち込まれ、そのためのカーネルを改良するという相談があった。T部長に続くこれに対応できる人材(NetBSDハッカーだった)がたまたま確保でき、この成果を各社に広めていくことでLinuxカーネルの事業として何とか成り立った。なお、これが現在のVA Linux Systems Japan社の事業にそのまま直結している。私が出ていった後は外で喧伝する人がいなくなったので全く目立たないが、今も彼らは低レイヤーの世界で生きている。これを読む人達が使っている何かにも彼らの成果が載っているかもしれない。

Linuxカーネルのビジネスも割と順調に推移し、そこから少しずつ上位の機能への進出も図り出した。ISP用の大規模メールサービスを開発してみたり、その流れでOpenLDAPの改良をしていたのもこのすぐ後からだ。また、海外のオープンソース市場が復活したことから住友商事がオープンソースベンチャーへの投資を再開したので、その尖兵役のようなことをVA Japan側が務めることもあった。例えばMySQL AB、XenSourceなどである。

どこかで「VA Linux」が日本で生き残っているという話を聞きつけたのか、元米国VA Linuxの人間だったRastermanが入社したりと当時としては随分外国人が多かったように思う。まあ、私がこっそりとプレスリリースを全て英語も用意し、私が自ら英語圏のメディアに配信していたからではあるのだが。

この頃何かのプレスリリースがどこかの英語メディアに記事として掲載された時、「日本でVA Linuxが生き残っている!しかも、Linuxカーネルの事業をやっている!」といった内容のコメントが載った。売上的にはありし日の米国VA Linuxと比較できるほどではないのだが、それでも私は「勝った」と思った。自分達こそが米国VA Linuxを継承する存在であると世界に示していこうと、この頃は本気だった。

また、VA Japanでは基本的にDebianを推していたが、Debian Project創始者が率いるProgeny Linux SystemsがDebian界隈の世界の企業の連合体を立ち上げようとしていた件に対し、eWeekなどの幾つかの英語媒体を巻き込みつつVA Japanとして「Debianはコミュニティのモノだ」と反対の論陣を張って論戦となった結果、当初のDebianを率いる存在となるような計画はほぼ阻止したのは非常によく記憶に残っている。若く無鉄砲な行為ではあったが、これだけの影響力を持てたのだと実感させられたからだ。


5. OSDN Japanの完成 (2001年-2004年)

一方、米国OSDNに関しては、元々VA Linux社に買収されたAndover.net社の機構が残っていたので、そのまま米国OSDN社というほぼ独立したWebメディア企業になっていた。ちょっと他と違うのは、百人程度の小さなメディア会社でしかないのに、事実上 6億ドルの累積損失を抱えた上場企業として投資行動に制約がかかっていたという点である。

ドットコムバブル崩壊の象徴的事例となってしまった米国VA Linuxのクラッシュにより、2003年上期あたりまではオープンソースという言葉はビジネス界隈では禁句のようになっていたし、広告市場も軟調だった。多くの売上が期待できない以上、Webメディアができることはコストを下げるしかないのだが、米国OSDNの傘下サイトの中で突出して運営コストが大きく、それでいて売上が多いわけでもないSourceForge.netの存在は問題だった。米国OSDNは新規開発をせず、運用は最低限に絞り、スポンサーシップ商品を売り込むことで存続を図っていた。当時は自力でホスティングサーバーを借りて環境を整備するほうが主流だった世界だが、それでもある程度はSourceForgeにリソースを頼るしかないというオープンソースプロジェクトも多く、そのためこのような惨状であってもサイトは大きくなるばかりだった。

このような状況下において私は考えた。Slashdot Japanはfj newsgroupのような雰囲気を纏いながらも匿名さんが多いという不思議な空気が漂っていたが規模的にはそこそこ大きくなってはいた。しかし、扱うテーマ的に限界があり、これだけでメディアビジネスとしてはやっていけないだろうとも判断できた。やめるなら今しかないが、続けるなら他のサイト開設が必要だと。

その頃、SourceForge.netはコミュニティに広く委ねる開発も完全にやめており、国際化コードも打ち棄てられていた。おかげでGNU SavannahやDebian AliothなどのサービスがSourceForgeを離れ、GForgeというフォークも生まれていた。置かれている状況的には大きな機能追加もないだろうし、そもそもいつまで継続できるのか?スポンサー契約が取れている間はいいが、スポンサーがSourceForgeのようなものを開始すればおしまいではないのか?と。彼らの親会社にあたる米国VA Linux改めVA Software社がSourceForgeブランドの プロプライエタリ製品を出そうとしていることも頭にあった。

ここでSourceForgeブランドの製品を日本で売るという話をダシにして、どさくさにSourceForge.JPを立ち上げ、将来的にSourceForge.netに一大事があった場合のバックアップサイトとしてのポジションにしてしまおうと考えついた。ついでに日本側のメディアサイトの規模も拡大できるだろうと。この頃には、正直なところ米国はパートナーとしては付き合ってもいいが、心中する気はないし、場合によっては全部引っこ抜く!という想いにもなっていた。

ということで、2002年、私は一年前の考えを改めSourceForge.JPの開始に動いた。この時、米VA Linux社のラックマウントサーバーが在庫として残っていたのでハードウェアだけはコストがかからなかったことも幸いだった。SourceForge.JPはDebian開発者でもあった安井さんと杉浦さんの二名の手で何とか立ち上がり、少しずつ利用プロジェクトが増えていった。ただ、私はやはり日本に閉じたサイトというのは気が引けたので、当初はプロジェクトが成長したらグローバルに出て行く、つまり「SourceForge.netへステップアップしなさい」というように各所に書き残していた。右手で握手、左手にナイフのようなものだ。

この一年後には、記事コンテンツはないとそもそも広告メディアとしては営業しにくいという名目をつけ、japan.Linux.com (今のOSDN Magazine)を立ち上げ、この頃には復活しつつあった米国のLinuxとオープンソース業界の話題をガンガン垂れ流しつつ、主筆に八田真行さんを据えることで本腰を入れて国内にオープンソースの考え方の浸透を狙いにいった。八田先生のキャラクターもあってこのあたりは話題に事欠くことはなく、私としては非常にエキサイティングな時期だったと思う。「目つきのヤバい少年がナイフをシュッ・シュッと振り回しながら街を徘徊している情景が目に浮かんだ」と高木浩光先生が彼を評したのもこの頃である。この翌年には私がガラパゴス騒動を起こすので、シュッ・シュッとガラパゴスの人に運営されているおかしなメディアだと思われていたかもしれない。


6. VA JapanとOSDN Japanの分離 (2005年-2007年)

2005年まではただがむしゃらだった。日本側のWebサイト群はオープンソース振興目的としてはほぼ完成形となり、VA JapanのLinuxカーネルを中核としたビジネスは小さな紆余曲折があったもののそれなりに順調だった。ただ、2006年になり、ふと VA Japanのカーネルを中心としたビジネスとOSDNとしてのWebメディアビジネスがあまりにも解離が大きいと感じるようになった。

外からみれば大きな違和感はなかったのだろうが、私は一人しかいない。基本的にOSDN JapanはVA Japanのために行動していたわけだが、両者の利益相反というかどうにも割り切れないことも増えてきた。VA Japanのマーケティング責任者とOSDN事業の責任者の兼務に頭の整理が追いつかなくなってきたというのもあるし、OSDN Japanは外に出したほうが成長させてあげられるのではないかと思い始めた。

一方、米国OSDN改め米国OSTG社でも2006年に大きな変化が起きていた。彼らの傘下メディアには実は当初からオープンソースとは全く関係のないサイトも多くあり、その中のMediaBuilderとAnimation Factoryというサイト群を売却して900万ドルの現金を得たのである。

米国OSTGが運営するサイト群でもSourceForge.netは突出してコストが高く、運用メンバーは常に2,3名しかつけられない有り様が2001年以降続いていた。サーバーインフラ、コードは老朽化し、特にCVS周辺は常に大きな遅延が発生し、ほぼ使い物にならない最も問題がある箇所だった。この頃までには多くのオープンソースプロジェクトがCVSソースコードリポジトリを外部へ移動したり、または他のサービスや自前でSubversionリポジトリを立ち上げたりするようになっていた。ようは、この時点では“開発サイト”としては終わっていたのである。

何度もサービス終了が議論されたはずだが、それでも毎日増え続けるファイルリリースとダウンロード需要がそれを引き留めた。日本側も実は同時なのだが、2004年にGoogleとの間でメディア企業向けのAdsense契約が締結され、ダウンロードサイトとしての収益が劇的に改善していたからである。

改善したとは言ってもサービス継続には大きな決断が必要な状況だったはずだが、米国OSTGは2006年のサイト売却で得た現金の一部をSourceForge.netのインフラ改修と何人かの新規スタッフ雇用に割り当てた。これにより彼らはSubversion対応も成し遂げ、何年間かのほぼ瀕死の状況から何とか一息付くことになる。CVS時代の2002年頃まではコードリポジトリサイトとしても隆盛であったものの、以降の数年間でほぼ見限られていたがここで体面は保つことになった。

米国の動きも踏まえ、私としては割と見限っていたところもあった米国OSTG社との連携強化も視野に入れつつOSDN Japanの今後の成長を考えると、私の中ではVA Japanとは分離したほうが良いという結論に達した

当初、VA Japanの上田社長は渋っていたが、しばらくすると腹落ちしたのか住友商事の情報産業部門の傘下内で分離できないか検討していたようだ。ただ、それは住商社内の問題で難しいという結論になり、結局米国VA Linuxクラッシュによって発生した累損をカバーするという目的も加えられ、OSDN Japanを外部へ譲渡するという方向性になった。

この時はインターネットプロバイダー、Webメディア会社等の幾つかの企業が交渉相手となったが、住友商事側が納得できる金額を提示できる業者はなかなかいなかった。一社だけそのラインを越えたのが、当時はIT領域でのベンチャーキャピタルとして名を知られていたサンブリッジである。

サンブリッジとの交渉は割合と順調に進んだ。私はそもそも分社することが目的であってOSDN Japan側に付いていくとは一言も言ってなかったものの、譲渡先としては私がいない状況は考えてもいなかったようで、サンブリッジ側で先にOSDN株式会社という子会社を設立し、その会社がVA JapanからOSDN事業の譲渡を受けるという枠組みになり、その新会社の社長に私が据えられることになった。

米国側は既にOSDNという組織名を捨てていたにも関わらずこのOSDNという社名にしたのは、そもそもドメイン名を変えるのが面倒ということもないわけではないが、我々だけは当初のオープンソースへの理念を曲げることはない意志を表したかったということもあった。ともかく、私としてはオープンソース開発者をどんどん吸い込む会社を作ろうという野心を持って上京してきたわけだが、ここでその野心はWebサイトの中だけに留めることに軌道修正させられることになった

なお、新会社に連れて行く社員に関しては少々だが揉めた。VA Japanというオープンソース技術を売る会社として集めた人材を弱小となることが見えるメディアビジネスの会社へ転籍させていいものかという話である。OSDN Japanは私を含め、全員が他の事業との兼務であり、下手をすると社員は全員VA Japan側の業務をしていて外部のボランティアや委託者だけがサイトの面倒を見ているという状況になっている時期もタイミングによっては発生していたのだ。私はVA Japan側からは出向のような形に留め、新会社側で新規にメディアビジネス志向の人間を採用したほうが良いのではないかと話していたが、結局OSDN Japanの事業に関わっていた者は全員新会社に連れていくことにした。


7. OSDN株式会社の始動 (2007年-2008年)

OSDN株式会社が始動し、私は即座に人材を集めることに集中した。当時の運営サイトは、Slashdot Japan、SourceForge.JP、Open Tech Press(後にSourceForge Magazine, OSDN Magazineと改名)の3つであり、現在と基本的に変わっていない。VA Japanでは私がマーケティングとの兼務だったように全員が片手間でサイトを運営していたので、メディアビジネスの人間としては素人だったし、そもそも営業や編集タイプの人間がいなかったのだ。私自身は米国側との交流から様々な知識を得ていたので見様見真似で何とかしていたが、特にネット広告市場の違いには手を焼いた。広告代理店とメディアの双方に巨人がいる日本市場は米国よりどう考えてもハードだった。

このタイミングでIT関連雑誌の不況によってオープンソース・マガジン(旧UNIX USER)等のLinux関連雑誌が幾つか休刊しており、元編集部の人間があぶれている状況だったことはOSDN社にとっては幸いだった。おかげでUNIX USER時代の編集長だったnabeshinさんには編集から営業まで幅広く面倒を見てもらい、スラドには昨年までスラド編集長を務めていたhylomさんを割り当てることができた。他にも出版、広告業界の人材を採用し、何とかWebメディア企業としての体裁を整えた。メディアキットもそれらしくなり、ほとんどの大手広告代理店と代理店契約も結び、VA Japanのマーケティング費を浪費していた頃とは違ってそれらしい売上を出せるようになっていった。代理店によってはITmediaやCNetに次ぐ扱いをするところもあって、割と大きな案件をコンペで競り勝った時にはちゃんとした会社になったもんだなと感慨深いものがあった。

技術陣にはDebian開発者として知られていた半ズボンの人の石川さんを招き、それまではSlashdotが古くなれば運用の合間を縫ってそこを改修し、SourceForge.JPに機能が足りなければまた運営の合間を縫ってみんなで改修… と交互に改修を繰り返すという自転車操業的エンジニアリングだったのだが、石川さんをSourceForge.JPに張り付けたことで世界が変わった。Slashcodeのバージョン上げは一年以上を覚悟しなければならないしんどい作業であるものの、本腰を入れて取り組めるようになった結果、Slashdot Japanのバージョンは何とか上げることができた。また、SourceForge.JPの90年代のPHPコードは大きな骨格は変わらないものの何とかメンテを続けられる程度にはモダン化され、チケットやフォーラムは作り直された。また、Subversionに関しては遅れていた米国側よりもさらに若干遅れての実装だったが、Git、Mercurial、Bazaarには米国に先んじて対応することができた。


8. 米国の中興と日本の迷い (2008年-2009年)

新会社設立から2008年までの一年間でWebメディア企業としては体裁が整い、そこそこ次の戦略をどうすべきかという段階にきたが、“メディア企業”としては幾つか大きな問題があるように思えた。

1. Webメディア企業にしてはページビューを生み出すコストがやたらに高い
Slashdot Japanは当時のバズワードを借りればCGMとも言えたのでまだマシではあったが、SourceForge.JPのコスト体質はどうにもならないところがあった。CVS/SVNのトラフィックやプロジェクトが使用するWebホスティング領域に広告を貼ることはできないし、その運用コストだけで一般的なメディアと比較すれば1PVあたりで10倍以上のコストがかかることになる。この上で改修と新機能追加のサイクルをまわしていくとなると、絶望的なコスト体質になる。SLashdotも開発コストは高いが、SourceForge.JPは立ち上げ時の様々な経緯により日本側で完全にforkしていたのでビジネスが日本国内という縛りがあるにも関わらず多大過ぎるコストがかかっていた。
2. 扱う領域がオープンソース関連のみであるのは狭すぎる
Slashdotは微妙だが、基本的にはオープンソースという特定領域に絞っており、各サイトで細かくPV増加のための施策を繰り返していたが、この頃には国内ではトラフィックの上限があるように予測していた。

これらはVA Japan時代から当然ながら分かっていて覚悟していたことであるが、既存サイトで可能な考えられる打ち手をどんどん繰り出していく内に思っていたよりも売上は大した伸びではなく、思っていたよりも技術的課題が多くコストがかかると痛感させられるだけだった。OSDN社となってから呼んだ人材のメディア側の人間が多かったので割と明確に分析できていたし、多くの施策は打ったと思う。損益的には会社を維持していくには問題ないレベルを達成していけそうではあったが、親会社となっていたサンブリッジ社に提示していたビジネスプランとは乖離が発生していたことは明らかだった。

この頃は各サイト間でのユーザーの依存も大きく縮小方向に行くことはあり得ない状況であったので、私は攻めるためには何ができるのか考えた。ありがちなのは人材ビジネスや物販という手段だが、人材会社が最も大きな広告顧客であるので頭の中で消した。あとはSlashdotについてはカルチャー的にも大きな変化を起こすことも難しいので必然的にSourceForge.JP側となるわけだが、開発支援やコミュニケーション機能、ビジネス系の機能などいろいろ頭に思いつくものの、そもそも日本国内だけという縛りでは意味はあるのかと元々のサービス開始時からの疑問が頭をよぎるばかりであった。

投資会社としてはおかしな話だが当時のサンブリッジ社はOSDN社に対しては成長よりも着実な利益を求める方向だったこともあり、どのような手段を講じようとも新規の投資活動がなければ袋小路に入ると考え、一気に全てを打開する案にたどり着いた。当時の米国VA Software社は独自のプロプライエタリツールのビジネスを諦め、子会社だったOSTG社がそのまま親会社を飲み込んでSourceForge社と名乗っていたが、その米国SourceForge社と日本のOSDN社を合併もしくは買収させる案を考え出したのである。これでサンブリッジ社を納得させ、日米の両社で新領域へ再投資していくことを企図したのだ。

当時の米国SourceForge社は、Andover.net社時代からの細かなサイト群の整理が完了し、Slashdot, SourceForge.net, Freecode, ThinkGeekというコアサイトに再編が完了し、日本側に遅れつつもSourceForge.netではGit、Mercurial、Bazaarへも対応を完了し、さらに当時のオープンソースプロジェクトがよく使用していたMediaWiki、Trac、WordPress、Piwik、phpBB、LimeSurvey、dotProject、Codestrikerといったツールが載った個々の仮想インスタンスをSourceForge.netのアカウントでいくらでも無料で使い放題にできるHosted Appと呼ばれる機能をローンチしていた。SourceForge.netの本体のほうのトラッカーやフォーラムは以前の90年代からのままであり特に改善はなく、Hosted Appには全く儲かる要素がなかったので「お前ら頭大丈夫か?」と言いたくなったが、ありし日の米国VA Linux社のような無茶さ加減が戻ってきた感もあり懐かしさを感じるものだった。そもそも、オープンソースの揺りかごとして存在することが開始当初からの信条(コラム1にて後述)であり、それには合致するとも思われた。

Hosted Appで使用できたインスタンス

また、この頃はWindows系のオープンソースツールのダウンロード用のホスティング先としての需要が高まっており、毎日数百の新規のプロジェクト登録と数百万のソフトウェアダウンロードを記録するようになっていた。なお、多くの方には違う歴史に感じるかもしれないが、実はここからSourceForge.netは全盛期に向かいつつあった。ダウンロードサイトとしてだが。

私は米国の動きから右手で握手、左手でナイフのような微妙な距離感を保つことを明確にやめ、米国への提案のタイミングを伺った。ちょうど良いタイミングで米国側のCEOが交代し、Slashdot.orgの人間が言うには「初めてGeekカルチャーを理解する人間がやってきた」との評だったことから即座にアポを取り、2009年2月にマウンテンビューでの会談に臨んだ。

日米双方の会社の歴史、日本側の状況や独自機能、そして将来構想などを説明しつつ、一緒にできることがあるだろうと合併を提案した。

結論から言えば、この提案は通ることはなかった。米国のCEOは前向きに考えたようだったが大株主の了承は通りそうもなかったようだった。既にOhloh(現在のOpen Hub)というソースコードリポジトリ等を解析してオープンソースプロジェクトの統計情報を提供していた人気サイトの買収案件が進んでおり、それが優先という事情が大きかった。米国側の社内の空気は劇的に改善され、事業内容も運営サイトが絞られたことで明確化され、オープンソースコミュニティを支えるという芯が再度明確化されていたのは明らかだったのは良い兆候だったが、VA Linux社時代でのクラッシュによって発生していた莫大な損失を彼らはそのまま背負わされていたこともあり、投資活動にはまだ制約があったのである。しかしながら、この会談以降、数年の間は日米の風通しは良く、お互いに助け合う関係ができていたように思う。

なお、この時、日本側での登録プロジェクトが日本人しか相手にできないのは理不尽だろ?と投げかけ、SourceForge.JPの事実上の国際化を認めさせる言質を取り、日本語をデフォルトとしながらも少しずつサイトの国際化を進めた。後にそれが功を奏すことになる。

GS Warriors全選手のサイン入りボール、Geeknet社CEOと佐渡家揃ってコートサイド最前列で観戦

9. ジェットコースター – 日本の独立と米国の暗転 (2009年-2010年)

リーマンショック直後はさほど大きな影響はなかったものの2009年になって急に日本側の売上が不振に陥った。このあたりで大手ベンダーが純広の広告手法を見直したことが大きかったのだが、その直後にコスト削減という名目で事実上の人員削減の要求が私に課せられた。中長期では大きな問題と見てなかったものの、だからと言って回復の確信はなく、のらりくらりと交わしていたものの、何人かがOSDN社を去ることになってしまった。

私は親会社側の幹部会議にも出席していたのである程度は状況を知る立場にあったが、当時のそこまでの要求をする動機があるように思えなかったので不信感が残っていた。しかし、2009年の末頃になって状況がやっと飲み込めた。詳細は控えるが、グループ全体のあり方について彼らの投資家陣の中で意見の相違があり、その影響を受けてしまっていたようだった。

翌2010年早々、当時の日本側の親会社はグループ全体を事実上解体する方針を出した。子会社だった会社は外部へ放出されることになり、OSDN社については代表取締役である私が引き取る案もあれば、サイトをバラ売りしてでも売却してVA Japan社からの買収分の投資を回収という意見も出ていた。

この時、SourceForge社から米国Geeknetへと社名変更していた米国側は、Slashdot.orgの創始者の一人であるHemosことJeff Batesが中心になって日本側を独立させる検討をしていたようだった。私からの合併提案を流してからそう時間は経っておらず、米国側から買収というのはすぐには無理だと分かったところで、彼らは「佐渡がOSDN社を引き取ることがベストである」と正式に意見表明をした。当時の親会社は佐渡に売るよりも少しでも高く他社へ売れないかと一部に動きがあったが、それを見て米国Geeknet社は正式にサイトライセンス契約を破棄する文書を送付してきた。これは佐渡に売らないのであれば全てを終わらせるという脅しだと推測できた。そこで親会社は折れ、2010年5月、私は保有していた現金を回収された後のOSDN社を貯金をはたいて引き取った。

私が100%のオーナーとなった新生OSDN社は西日暮里に移転し、私が全てを即座に決定できるようになった。現金を回収されていたので当初は私が会社に対してさらに貸し付けるという状況だったし、新会社であるOSDN社のバックオフィス業務を全て私一人で行うようになったために大変な状況ではあったが、なんだかんだで細かなコストが抑えられるようになり、さらに売上も回復したことですぐに一息つけるようになった。

私は独立から落ち着いたら日米の関係をどのように深めていくか直接会って話し合おうと米国側へ連絡していたが、その直後の2010年8月、米国Geeknet社のCEO以下、経営幹部陣がほぼ全員クビになった…。

あるファンド系の大株主の要求で起きたことだと聞いている。おそらく、SourceForge.netとSlashdot.orgを優先するのではなくECビジネスのThinkGeekを優先させたかったのだろう。ThinkGeekはこの頃まで毎年売上が計ったように二倍になるという成長を続けており、10年で売上が数百倍になっていた。ただ、ThinkGeekは単なるグッズ販売の小売業であり、2/3の売上がクリスマスシーズンに集中し、わずかな利益もそのシーズンしか出ないというアメリカの典型的な小売業パターンの事業だった。また、顧客は明らかにSlashdotとSourceForgeとの親和性があり、両サイトがあってこそのサイトとしか見えなかった。しかし、株主にはそれらが見えず、またSourceForge.netの莫大なコストが我慢できなかったのだろう。

さらに悪いことに、この時に解雇された中にHemosことJeff Batesがいたことは最も大きなダメージだった。彼がいたことでオープンソースコミュニティが何を考え、どこまでを許容でき、何をしたいかを直接経営に反映することができ、それによって少ない予算、少ない人員でもやるべきことをこなしてこれたと私の目から見えていたのだが、その機能が無くなってしまったことで後に様々な弊害を起こすことになる。

ともかく、米国はまたクラッシュである。しかも今回は救いがない。


10. 負の連鎖 (2011年-2012年)

日本側は新会社になったばかりで身動きが取れず、米国も経営陣を総退陣させた後新体制がほとんど決まらず、翌2011年3月になって私のほうがシビレを切らして米国に乗りこんだ。

両社に経営問題があってその時期までおざなりになっていたが、私は2009年の買収提案時に説明していた日本側からの両社の将来計画案について、日本側で独自にでも進めることを通告するつもりだった。2009年に米国GeeknetのCEOに説明した将来構想を示すスライドの一部が下記である。

2009年にGeeknet社CEOに見せたスライド

この図は一見大層なことが書かれているように見えるかもしれない。ただ、よく見るとプロジェクトに必要な機能的な要素の外周にさらに考えられる追加要素が総和的に書かれているだけである。日本側ではこれらの外周の要素を少しずつでも機能追加していくとスライドで説明できるわけだが、これだと現状からそれほど大きな変化がない。そうではなく、実はこれらが一つの輪で全てがつながっていることが重要で、「今のSourceForgeの基盤はそれぞれに独立した単独の機能が横並びしているだけで今時の開発には使えない。なので両社で一からオープンソースコミュニティ全体が利用できる基盤を開発し直そう!」とも米国側に言えるように書いていたのである。

SourceForgeの基盤ソフトウェアは90年代に設計されたPHPコードであり、トラッカー、フォーラム、ファイルリリースなどがそれぞれ独立して存在するツールを同じアカウントで利用できるという構造のものでそれらを横串するような機構はなかった。新機能を投入しても同じように独立機能を増やすだけだし、改修のコストは比例して増えていくだけの構造にもなっていた。米国側がHosted AppというTrac、WordPress、phpBBや人気のツールを自由にホストできる仕組みを開始していたが、これにも各ツールの統一性、連携といったものが欠落していた。

また、当時はリポジトリに関しては既にGitHubは人気はあったが、Gitoriousやrepo.or.czもいれば、Mercurial系のBitbucketもいるし、BazaarのLaunchpadもいる。そもそもそれらの分散系リポジトリは各々によるセルフホストがまだ主流であり、freedesktop.orgのようにそこそこまとまった単位でホストすることも多かった。また、CVSはそろそろ無視できる状況だったがSubversionはまだまだ強かった。 オープンソースの揺りかごとして開始されたSourceForgeとしては、これらの機能、外部サイト、ツールを全て包括的に扱うインフラとなるサービスを目指すべきだろうと2009年2月の段階で呼びかけていたのである。SaaSのようでもありPaaSでもあるような不思議な説明だった気がするが、2009年当時のGeeknet社経営陣は非常に真剣だったのは鮮明に覚えている。

しかし、彼らは既にクビになっている。一番我々を理解していたJeff BatesもとっくにGooglerになっていた。ということで、もはやオープンソースへの方向性が米国側と一致するとも思えず、「日本側で可能な範囲で新しいサービスを作りだすよ」と仁義を切りに向かったつもりだった。もちろん、正面から喧嘩を仕掛けてもしょうがないので、営業のメンバーも連れていき、あくまでライセンス契約の見直しとサイトや営業の提携関係の強化を装うように幾つかの協力関係のトピックを作り、最大限に気をつかっていた。

サンフランシスコへ本社を移転していた米国Geeknetの社屋に入ると… 新CEOは不在だった。

急に株主に呼び出されたと聞き、「またかよ!」と臍を噛んだ(翌週にこの時のCEOは辞任する)。 しかし、代わりに迎えてくれたG Wooという男のプレゼンは非常に目を引いた。彼は当時のCakePHPのコアメンバーだったはずだが、何故かPythonで開発しているというツールの説明を開始した。

そのツールは、新しいForgeソフトウェアだった。ただ、一人のユーザーもしくは一つのプロジェクトにそれぞれ任意の数のリポジトリ、トラッカー、フォーラムを設置することができ、さらにユーザーやプロジェクトの中にプロジェクトを入れ子的に際限なく深くまで設置することができ、それぞれにリポジトリ等も任意の数で設置できる。また、プロジェクトやユーザーを任意の数でまとめることもできる。さらに全ての構成要素それぞれにアクセス制御を行うことができる。また、全ての要素でインポート、エクスポート、APIが備わっていた。さらにモジュール構造というか、基本機能以外に必要な機能があればプラグインのように新規に自由に作ることも可能になっていた。(なお、このツールをSourceForgeに合わせて設計し直されたようなツールが現在ではApache Alluraとなっている。)

G Wooが2009年の終わりにプロジェクトを開始したと言ったところでやっと流れが飲み込めた。米国側は2009年の私の提案も考慮していたのである。彼らとして考えるオープンソースプロジェクトに対して最大限に自由を与えるための環境の開発を進めていたのだ。2009年当時の経営陣は当時の彼らが呼べる最高のチームで次世代への布石を打っていた。

私はライセンス契約、サイト上の誘導協力、営業協力といった商談をまとめ、Alluraに関しては日本の技術チームで調査した後、出来る範囲で協力すると言って帰国した。

なお、この帰国直前に東日本大震災が発生した。帰国してからSlashdot.orgの創始者であるCmdrTacoに日本側のコメントを送りつけたメールが下記の記事になっている。

The Quake Through Eyes of Slashdot Japan (Slashdot)

また、この時の出張でたまたまサンフランシスコに来ていたCmdrTacoに会ったが、これが彼と対面で会う最後となった。私はSlashdot創始者の二人だけは常に信頼していたが、これで最初からの歴史を知る者が私以外全ていなくなった。彼と連絡を取り合う度に、最初から生き残ってるのは俺達だけだな!と言い合ってたが、とうとう私一人になってしまった。

Alluraに関しては、帰国後に改めて調査したところ、非常に自由度が高く、可能性を感じるツールであり、これをベースに日本でも新規にサービスを作れるかもしれないと素直に思った。しかし、随分と荒っぽいというか見ただけで分かる不具合も多く、挙動も安定もしていなかったし、国際化にも難があった。ただ、やはり面白いツールであるので何とかしたいと思いつつ、日本側で人を割り当てることに躊躇しているうちに G Wooとコア開発者が退職した…。

また、時間を無駄にしたと考え、日本側の新サービスはいったん封印することにした。

なお、2011年から米国のSourceForge.netはAlluraへの移行を少しずつ開始した。2009年当時の経営陣と当初のAllura開発者チームであればおかしなことにはならなかったと思うが、体制が変わってしまった後では私にはこれが大きな失敗になる確信があった。あまりにも当時のSourceForgeとAlluraの構造が違い過ぎたからである。Alluraの自由な構造をSourceForgeの構造に合わせることは難しいし、Alluraの機能に多くの制約をかければ長所を殺すことになり意味がないように見えた。反対にAlluraの特性を活かすようにすれば、SourceForgeの当時の広告モデルを破壊するように見えた。また、気が遠くなるほどのマイグレーションの時間がかかることも容易に推測できた。私はあくまで新サービスとしては面白いと見ていたが、現行サービスを移行させるのは困難と見ていたのだ。しかし、米国側ではそう指摘できる人が全員いなくなっていたのか、茨の道を進むことになる。(2021年現在、Alluraはリポジトリ、Wiki、トラッカー等の開発機能側で使われている。)

そして、この2011年の終わり頃に新CEOが就任したという知らせが届いた。
今度こそ真剣に選ばれたと聞いてクリスマス近くになってまた私は米国へ向かった。

何人めか分からない今回の新々CEOはテクノロジーにもメディアにも知識が豊富でやり手の人間に見えた。いつものように日米の会社の歴史、日本の状況を説明した後、会談の最後に私は「日本側はいつでもあなたたちと一緒になるという覚悟すらある。けれども、あなたたちの方はそもそもステークホルダーがバラバラの方向を向いている。もしあなたがこの会社とSlashdot.org、SourceForge.netを正しい方向に向かわせたいなら投資家を味方につけ、MBOをするべきだ」と言い放った。彼は何故私がそのようなことを言ったのか即座に理解しているようだった。

2012年9月、米国Geeknet社はSlashdot、SourceForgeを人材サイト企業のDice社へ売却した。

新々CEOはしばらくして消えた。もう何人目か数える気もしない。


11. 停滞する日米関係 (2012年-2013年)

2010年に必死の想いで西日暮里に新生OSDN社を立ち上げて以降、米国との関係はただドラマを見ているだけのようであったが、国内のビジネスは安定していた。年々単価が下がる広告、相変わらず掛かるインフラコストに悩まされながらもSlashdot.JP、SourceForge.JPはそれなりのサイト規模を確保し、広告顧客にマーケティング支援やSEOコンサル等を行って売上も増加させることができていた。少し運用に余裕ができればSourceForge.JP側の改修と細かな機能追加に割り当てるというサイクルを繰り返していた。

ただ、Slashdotのバージョンアップがどんどん困難になってきていること、さらにSourceForge.JPは改修がどんどん追いつかない状況が見えてきていたので抜本的な変化が必要な状況であることは明らかだったが、どちらのサイトもそこへ手を入れるまでの余裕はなかった。合間で行う機能追加の技術的なバックボーンの世代が異なることで、運用のための限られたリソースがさらに逼迫していくことにも拍車がかかり、米国で熱く新世代サイトを語った熱気はなくなっていた。それでも日暮里オフィスでほぼ固定化したスタッフ陣はそれぞれが与えられた領域を忠実にこなし続けたため、傍目には非常に安定した経営がなされていたように見えただろう。サンブリッジ社のCFOだった方に新生OSDN社の税務を担当して頂いていたが、毎年着実に数字を重ねることを褒められるのが恒例になっていたぐらいである。しかし、次のステップへの足がかりがないというのは閉塞感を生むものである。

何とか打開したいとは思いつつも基本的には米国とのライセンス契約の下でサイトを運営している以上、投資活動を行うことも難しく、そもそも日本のオープンソース界隈の歴史的コンテンツの多くを抱えているというのも心理的な行動への制限となった。

米国側はGeeknet社から米国Dice社へサイトが売却され、売却されたサイト群をSlashdot Media部門と総称していたが、大きな変化をオープンソースコミュニティのために起こそうとするような動きはとうとうここで消えていた。

米国Dice社Slashdot Media部門には最初はCNet等のメディアを渡り歩いてきたベテランの女性が部門トップとしてやってきたが、気がついたらいなくなっていた。
その後、米国空軍の幹部だった女性がトップに就任したが彼女と会う機会はなかった。

Slashdot.orgはCmdrTacoが辞任して以降はシステム側の抜本的な変更はほぼなくなった。一度、2013年から2014年にかけて当時の意識が高い系サイト風のデザインへの変更が試みられたが、コメントジャンキーの心を逆撫でし、大規模なボイコット運動が起きたことで、結局全て元へ戻された。

SourceForge.netは、運営スタッフの数が米国VA Linux社クラッシュ以降のかつての暗黒時代並みの数に減り、開始されていた開発系ツールのAlluraへの移行が亀の速度で進むだけになっていた。無理に移行を進めることでシステムの安定性はどんどん落ち、停止が頻繁に発生するようになった。また、Allura自身が当初の設計からSourceForgeに引きずられることで自由度が低くなり、場当たり的コードも混入した。プロジェクトのトップやダウンロード関連は旧来コードのままで、そのデザインにAllura側を合わせたこともあり、何の意味があるのか分からない作業となっているのは明らかだった。現状維持であれば、日本側のように旧来コードの改修で十分だっただろう。

私はもはや米国とは技術的な部分で協力し合うことは難しいと悟った。


12. スパム!、アドウェア!!、マルウェア!!! (2012年-2014年)

いつの頃かはっきりとはしないが、2012年前後から私はSourceForgeのSPAMの削除に追われるようになった。当時は日本側にコンテンツミラーが多かったこともあってSourceForge.net側のプロジェクトに問題があればその都度で通報していたのだが、ある時尋常ではない数のプロジェクトが単なるSPAMであることに気がついたのだ。日本側では割と以前から単なるSEO目的等のSPAM的な登録を排除するために独自のフィルターを設置していたし、監視もマメに行っていたが、まさか米国側がそれを行っていないとは思いもしていなかったのである。最終的には米国側にはSEO目的と思われるプロジェクト登録が数百万単位で存在することを確認した。

ドラッグ、ギャンブル、風俗、アンチエイジング等の美容品、クーポン、ペイデイローン(給料を担保にする米国の短期小口ローン)あたりの有害サイトへ誘導するものがほとんどだった気がするが、米国側と相互にリンクし合っているサイトを運営している以上、見過ごすわけにはいかず、結局ほとんど私がそれらのSPAMをつぶす羽目になる。***といったワードを含むプロジェクトを全部削除しろと米国へ連絡することもあれば、雑多なものは表のUIから一個ずつ通報するという地道が作業が続き、私は一体何故米国のために働いているのだろう?と馬鹿馬鹿しく感じていた。

また、SourceForge.netは2008年あたりからソフトウェアダウンロードサイトとしての性格をより強め、トラフィックも上昇していたが、Windows系ツールを配布するプロジェクトの中には独自にアドウェアインストーラーを搭載したバイナリを配布するところが目立つようになった。当時はユーザーへのオプトインがしっかりとしているのであればオープンソースプロジェクト自身が独自のマネタイズとしてアドウェアに手を出すのは仕方がないと考えていたが、 ブラウザハイジャッカーやスパイウェアの類が混ざり込むという話を聞くに及び、米国側には取り締まるか、何らかの指針を作ったほうがいいと助言するようになっていた。

すると、何故か米国側は2013年7月にDevShareという自分達自らアドウェアインストーラーをプロジェクト側に斡旋するというプログラムを開始した。「そうじゃない!」と最大限に強く懸念を伝えたものの、当時の米国側は革新的なソリューションだと信じていた。逆に日本側もどうだと勧められたが、即座に一蹴した。当時はダウンロードバレーと呼ばれるイスラエル企業のクラスターが存在し、世界中のダウンロードサイトにアドウェア、マルウェアを導入させる動きを強めていたが、彼らがダウンロードバレーの誘惑に負け、ユーザーからの信頼をどんどん失う様を見るのは本当に辛かった。

さらにマルウェアの問題もあった。SourceForgeには昔から正当なハッキングツールも多くホスティングしていたが、それらのツールは得てしてセキュリティスキャナーで引っかかることが多く、それらの警告に混ざることで気がつきにくかったのだが、よく調べると悪質だと思われるマルウェアがたくさん見つかり、さらに海賊版のソフトウェア、それに扮したマルウェアも見つかり、本当に萎えてしまった。

さらに米国側サイトの増え続ける広告スペースも私をイラつかせた。当時はダウンロードサイトにダウンロードボタンを模した広告バナーを設置する業者が席巻していた。日本側は頑張ってGoogle側のフィルターに登録して調整しており、それでも業者側がアカウントを変えて通過させてくるので非常に苦労していたのだが、米国側はほぼ何もしていないようだった。彼らはユーザーからの信頼を急激に失っていることを誰も気にしていなかった。

私はもはや米国とは信条的な部分で協力し合うことも理解し合うことも難しいと悟った。


13. 幻の新サービス計画 (2014年)

私は呆れていた。

米国側とあらゆる面で協力し合う未来は全く見えず、もはや信頼は消えていた。とは言っても、ライセンス契約によって米国側からサイトブランドを借りている以上、打ち手は限られていた。Slashdot.JPはサイトとしては熟成し切っており、バージョンアップも難しい。SourceForge.JPもこれ以上機能を旧式の基盤の上に追加していくのは段々と難しくなっていることは理解していた。

ただ、日本側のビジネスは安定しており、大きな投資は難しいものの何か新サービスを立ち上げるというのは可能だと見ていた。

私はG WooがプレゼンしたAlluraを思い出した。この頃にはSourceForge.netの開発機能側に何とかして利用するために少しずつ荒っぽさが消えており、普通に単独のプロジェクトホスティングツールとして利用できるようになっているように見えた。再度社内で調査を開始し、日本語ロケールも加え、社内では使える程度にまでにはなっていたと思う。

前述した通り、Alluraはプロジェクトやユーザーの下にいくらでもプロジェクトを入れ子にできるし、プロジェクト自身に幾らでも柔軟に機能の要素を追加できる。プロジェクトの集合体もどの場所にでも作れる。この手のForgeとも呼ばれるツールの中でもかなり変わったツールだが、SourceForge.netが何とかしてリポジトリやトラッカーのみで使用して既存のプロジェクトの構成に当てはめてしまうのはAlluraの良さを奪い、わざわざ使う意味がないと考えていた。実際、以前よりは柔軟なアクセス制御ができるとしか思われていないだろう。

そこで、私は Alluraをそのまま単独でフルの全機能を自由に誰でも使えるようにしてしまおうと決意した。サイトブランドをXmithyと決め、ドメインも確保し、社内からはアクセスできるテストサイトも置いていた。ビジネスモデルなぞは何もなく、もしそこそこ大きなサイトにでもなろうものなら米国との関係もさらに悪化するだろうとは分かるので社内は若干懐疑的ではあったが、このために別法人を新たに立ち上げてでも私はオープンソースプロジェクトに対して完全に自由に設計できるプロジェクト環境を与えるつもりだった。実際、初期の投資額の算段をあれこれと考え出していた。

ただ、この計画は翌年の出来事で必然的に棚上げに追い込まれる。


14. 米国との決別 (2015年)

SourceForge.JPの運用上の問題への対応からXmithyの計画をいったん小休止していた2015年の3月、突然米国Dice社Slashdot Media部門からメールが届いた。そこには5月10日でOSDN社とのライセンス契約を解除するという文書が添付されていた。え?

Dice社にサイトが売却されて以降は米国側部門のトップはさらに安定せず、2014年夏には部門トップと日本とのカウンターパートとなっていた人間がいなくなっていた。その後任の部門トップには経験豊富な経営リーダーの外部招聘ではなく、何故か営業部門のマネージャらしき男が就いていたのだが、その男から挨拶以外では初めての連絡がその通知だった。

サンブリッジ時代に契約解除通知は一度受けているが、その時とは全く事情が異なる。そもそも思いつく決定的な理由がない。Xmithy計画は社外には出ていないし、ライセンスフィー支払いに問題はない。米国側が日本進出というのもあり得ないし、米国は現場レベルでは少しでもラクして売上を上げたいと思っているのは明らかだった。アドウェア、マルウェアに関してのスタンスの違いから関係が相当に冷えていたことは事実であるが、我々日本側から契約解除する理由はあっても米国側から解除する理由があるとは思えなかった。

さすがに意味がわからなかったので、通知を送ってきたその男を問い詰めると、彼が当時のSlashdot Media部門のトップであるはずなのに、彼は何故日本に契約解除通知を送ったのかすら理解していないように見えた。ますます理解不能だった。ただ、日本側とは交渉したいとも彼は言った。意味が分からないが、解除が決定事項なら交渉は必要ないわけで、脅しを強くかけたままの荒っぽい条件交渉なのだろうと思うことにした。

ともかく、手元でライセンス契約が解除された場合にどうなるかを考えてみると、まずブランドは一切使えない。つまりサイト名とURLは変更になる。また、相互のリンク等の協力体制もなくなる。簡易的にそれらの影響を計算していくと、サイトトラフィックと営業面に深刻な影響が生じ、一年程度でキャッシュアウトという数字が出た。私はもはや信頼が消え失せていた米国と長く関係を継続したいと思ってなかったし、実際関係を解消したいという意思も持っていたわけだが、こちらが準備した上ではなくいきなり関係が切れると我々の負けだとは悟っていた。そこで米国側が言う交渉とやらでは、私が全面的に折れ、日本の資産を全て明け渡す代わりにサイトの存続をさせてほしいという線で提案を作った。

この提案を出した後、すぐにファイナンス部門と検討するとは返ってきたものの私は違和感を拭いきれなかった。私は2000年から常に米国サイドの四半期決算発表をチェックしていたが、Dice社へ売却され、Slashdot Mediaがその中の一部門でしかないことからDice社以降はさほど詳細を見ていなかった。そこで、何期か分の資料を読み込んでみることにした。すると、驚くべきことがわかった。Slashdot Media部門の買収によって生じたのれんは2014年夏に一括償却されており、Slashdot Media部門自体が主要事業から外され、”その他”の中に入れられていたのだ。これは状況的にDice社はSlashdot Media部門の処分に動いていることを示すと推測された。そして、この憶測を確認するためにとある幹部へ接触し、詳細は控えるがおそらく憶測が正しく、それに付随して日本との契約も解除しようとしていることを暗に察した。

私は即座に税理士と相談し、さらにIT系専門の米国資格弁護士とコンテンツ、コード、商標等の扱いについて協議した上で別ブランドでサイトを継続する覚悟を決め、翌営業日だった3月30日、定例会議のために揃っていた社員にこれまでの経緯を説明した。社員は一様に驚きはしていたが即座に覚悟を決めたようで、午前11時から開始していた会議は午後にまでずれ込んでいたが、その割と早い時間にSlashdot.JPをスラド(SRAD.jp)、SourceForge.JPは社名と同じOSDN.jpへ移行することを決定し、さらに翌31日には具体的な移行手順までまとめられた。この時は本当に自分は社員に恵まれていると思わされた。

その時の気分としては翌日が偶然にも4月1日だったこともありすぐに一般公表したいとも思ったが、ネタとしか思えないような体裁の「すらど」への移行という記事にしてほのめかすだけに留めた。そして、4月2日、形式的にはまだ続いていたDice社Slashdot Media部門との交渉を日本側から打ち切り、日本側からも5月10日で契約を解除すると通告した。その後数日間は主に広告代理店周辺の説明にまわり、翌週4月8日に一般向けにブランド変更を公表、そして5月11日に移転が実行された。

我々は本当に独立してしまった。

スラド(SRAD)へのブランド変更決定の瞬間 (2015年3月31日)
OSDNへのブランド変更決定の瞬間 (2015年3月31日)

15. グローバルへ (2015年-2016年)

いざサイトブランドを変えてみると、想定していたよりも営業面への影響は軽微だった。これで何とか持ち堪えられる。

ただ、1/3程度のページビューの減少が発生するのは避けられないように見えた。当時は米国からのリンクというものの影響が大きかったのである。これを長期で放置することはできず、短期で埋める手段はスラドではサイトの性格上無理だと考えられたので、OSDN.jpで何とかカバーするしかない。これが分かっていたので、OSDN.jpに関してはどの国からでも国際化されたサイトとして見えるようにした。さらに、日本語、英語は標準として、その他の言語もボランティアの訳も取り入れながら少しずつ対応していくことにもした。国際化することで、海外からの登録が増えることを企図したのである。ただ、海外からの登録を待つだけではいつになったらユーザーが増えるのか、正直なところ不安しかなかった。

そこへとてつもない嵐が吹き荒れた。

私が再三文句を言い続け、日米の関係もそれで悪化していたアドウェアインストーラー、悪質SPAM、マルウェア、悪質広告バナー… これらの違いや当時のサービスの安定性の差でいずれSourceForge.netとOSDNの違いが理解されることを願ってはいたが、唐突にほぼ瀕死となるまで米国側が炎上したのである。

きっかけは5月26日にGimp-developer MLへ投稿された一通のメールだった。SourceForge.netにゴミ(アドウェアインストーラー)が置いてあると指摘する短い内容だったが、そのゴミのURLは元々 GimpプロジェクトがWindowsインストーラーの配布のために使っていた領域だった。つまり、そのプロジェクト領域がサイト運営側に乗っ取られていることが発覚したのである。その事実はすぐにGimpの公式なニュースとして公開された。そのニュースだけでも相当の熱量の炎上になっていたが、arstechnicaが詳細な記事を出し、otsuneさんならば炎上対策の悪い例として紹介しそうな意味のない弁明をSourceForge.net側がしたところで全て灰塵に帰すまで燃え続けることになった。

私が何年にも渡って指摘していたようなことは当然ながらコミュニティも気に入っているわけがなく、ずっと火種として燻っていたわけだが、それが一気に噴火してしまうとまでは考えてもいなかった。この騒動以前もSourceForgeの悪質広告やアドウェアに嫌気が差したプロジェクトが少しずつ去ってはいたが、SourceForgeからの脱出の流れは脱兎の勢いになり、もはや止められないものになった

日本のOSDNではそれを横目に見ながら、つい数週前の日本語、英語を標準と定めるという折衷的方針を改め、完全に英語をデフォルト言語とするように改修を開始し、グローバルな利用で最も障害になっていたファイルリリースのミラーサーバーを日本以外にも設置を進めることにした。完全な英語デフォルト化は翌年のOSDN.jpからOSDN.netへの移行でほぼ完成することになる。また、ミラーに関しては、日本側では長く北陸先端科学技術大学院大学(JAIST)とIIJ社にファイルミラーを依存する構造になっていたが、それをグローバル化する方向へ動いた。同時に、少しずつSourceForge.netに残っているか、もしくは出て行ったプロジェクトへの勧誘も開始した。

海外の最初のミラーはドイツのアーヘン工科大学だったと思う。一つ海外での実績ができてしまうと後は早く、SourceForge.netと手を切ったと言うだけでミラーを申請してくるような組織すらあった。当時はSourceForge.netのミラーをやめる組織も続出していたので一時期は完全に逆転していたし(現在はOSDN側の処理が追いついていないためミラー希望を何件か待機させている)、世界の各大陸でのバランスはOSDN.netのほうが良いという状況に1年程度で辿り着いていたかと思う。SourceForge.netのミラーがアメリカ国内に一箇所も無くなるという強い拒絶反応があったことも日本側には追い風だった。何せ、当時はSourceForgeでダウンロードする場合、アメリカ人はアメリカ国外からダウンロードする羽目になるという状況だったのである。

OSDNのミラーサイト一覧

ミラーサイトの拡充と歩調を合わせるように少しずつ海外からのプロジェクトの登録が進んでいたが、大きな転機となったのはClonezilla、Android-x86、Manjaro Linux、MinGWあたりの登録だろうか。どれもそこそこ大きなトラフィックを発生させるプロジェクトであるが、Clonezillaの要望でAPI強化、Android-x86の要望でファイルリリースとGitリポジトリ周辺の機能追加と改善、Manjaroの要望でrsync等で使い放題のストレージ、MinGWの要望で山ほどの細かな改良がなされた。奥ゆかしい日本人とは異なった率直な機能要望を受けての改善を繰り返すうち、いつの間にか割と多くのプロジェクトがOSDN.netを利用するようになった。もちろんそれより多くのプロジェクトがSourceForge.netを去ってはいるし、残ったプロジェクトもあるのだが、代替としてはよくやったと言えるだろう。SourceForgeと同じようにサクッと大量のファイルを配布できるサービスは他にはそうはなかったわけであるわけで。

なお、現在もSourceForgeでリリースファイルを配布しているとあるプロジェクトの管理者は2015年当時、「もうSourceForgeは信用していないが、日本のローカルなサービスも信用できない」とはっきり言っていた(実際にはもっと辛辣な表現だった)。しかし、たまたま数年後に完全に別件で問い合わせした際、その管理者は「君達がここまでやるとは思ってなかった。当時に動かせば良かった」とメールを書いてきた。このメールは本当に嬉しかった。

米国SourceForge.netはほぼ瀕死となり、様々な理由で動かせないプロジェクトだけが残り、憎悪の対象となるサイトになった。また、Slashdot.orgではこのSourceForgeの惨状を伝えることもなく、既に会社を去っていた創業者のCmdrTacoが叱責するという有り様であり、ボイコットを開始する人間まで出てきていた。おそらくDice社はすぐにでもSlashdot Media部門を放り出す算段があったのだと思うが、Gimp騒動により立ち消えになったのだろうと私は推測している。結局、Dice社は、夏頃になってからSlashdot Media部門を売却するので買い手募集!のような発表をする羽目になった。この発表後、翌年になって日本流に言うとアフィまとめサイトとSEOをやっていた小さな会社がSourceForgeとSlashdotを引き取ることになる。

その頃には、日本のOSDN.netはグローバルではたまーに見かけるという程度の大きさには成長したのだと思う。おそらくある意味で一番大きな影響があるのは、Vim.orgをOSDN.netでホスティングしていることだと思うが、これはSourceForgeがろくにメンテもされない不安定な状態になっていたところを見かねて声をかけたところ、随分と労力をかけてOSDN.net側で収容することになったのでよく覚えている。何故かよく分からないうちにOSDNのスタッフがvim.orgのスクリプト登録の部分のSQL改善をしていたのは思い出すと今でも笑ってしまう。


16. 嵐の後のマンネリ化 (2017年-2020年)

米国側との決別に続いてGimpハイジャックによる炎上騒動が起きたことで、我々はOSDN.netのグローバル化へ向かい、いつの間にかSourceForge.netの代替的な立場として意識される程度にはなった。そして、契約解除の絡みでOSDN.netもスラドも一時的に1/3程度のトラフィックの減少が発生したが、スラドは完全には戻りきらないものの、OSDN.netは早々に以前の水準を超えてくるようになった。

以前とは違って増加した分のトラフィックのほとんどは海外からのものであり、元々50%強と低かった日本からのトラフィック比率はさらに20%以下へと変化した。世界のほとんどの地域からトラフィックが発生するようになり、トラフィックが落ち着く時間帯というものは完全になくなった。これはグローバル化が達成できた証拠ではあったが、その一方でこれらのトラフィックは日本国内で純広告として売れる性質のトラフィックではない。ただ、この頃には広告から派生して顧客への資料作成といったマーケティング支援、さらにそこから派生してマーケティング支援やSEOのコンサルティングなどといったことまで広告顧客に行って売上をかさ増しするようになっており、売上はむしろ若干増える傾向にあった。

売上は安定し、OSDN.netが順調にグローバルサイトとして成長を開始している。で、あれば2014年に決断したXmithyと呼んでいた新サービス立ち上げを再開するという流れに行きそうなものだが、実は2015年の騒動の最中にXimthy計画は完全に破棄した。OSDN.netを急速にグローバル対応していく中、世界各国からの機能改善要求、サポート要求もひっきりなしに届くようになった結果、OSDN社のリソースでは新サービスを立ち上げるエンジニアリングリソースを割くことは不可能であると思い知らされたからである。現実として世界中から様々な要求がOSDN.netに届く中、零細企業であるOSDN社が未来がどうなるかも全く読めない新サービスを立ち上げられる余裕はなかった。ただでさえ、OSDN.netとスラドはどちらも非常に古いコードベースでメンテナンスの手間がかかり、またこの時点でもオンプレミスであったのでリアルサーバーの運用、保守というのも我々の経営規模に対しては非常に重かった。

こうなってしまうと袋小路である。

エンジニアリングリソースには余裕はない。日本時間の深夜に飛んでくるサポート要求に対応するだけで精一杯である。かといって、売上は安定していると言えども肝心の広告収入は単価減少による目減りが続き、新規に増員するまでの余裕という程でもなく、人員増のための新規投資ももはや枯れたサービスであるので難しい。GitHubが急速にオープンソースエコシステムを拡大させていく中、それに合わせた時代に適合する新サービスを作りたいという欲求はあったが、そのような新サービスを立ち上げるならば新規に法人を立ち上げて投資を集めた方が圧倒的にやりやすい。また、社員全員が高い能力を持っていたことから日々の業務に関してはコミュニケーションも特に必要なく、次第に業務が属人的に進むようになっていたことで、このような新規開発がやりにくい状況になっていた。数十年連れ添った熟年夫婦のような空気とでも言うか、淡々と日々が流れるだけの会社になっていたように思う。

社長がこう思っていたのだから、既に長い付き合いとなっていた社員達も似たような想いに到達していたのではなかろうか。次第に社内には閉塞感が漂うようになっていたように今は思う。

これを打開するために実際には新事業、新規採用と頭の中では目まぐるしく考えてはいたのだが、結局のところ私が100%のオーナー社長であることで事業への投資活動に制約があるように思えてきた。このままバックオフィス業務と各サイトのサポートに追われる人間が社長として舵を取り続けていいとも思えなかった。

また、平均年齢が40歳をとうに越えていた社員らをこのままずっと同じメンツが揃った箱に閉じ込めておいて良いのかという感覚も芽生えてきた。小さなWebメディアとしてはそこそこ高い水準の給与だったのだろうが、米国のビッグテックに追従して高騰するテック系と比較すれば全く高いとは言えない給与水準になってきていたことも悩みであり、彼らならばもっと高い評価を得られるはずと思うとタイムリミットが近いように思われた。

それに加え、昔ながらの純広時代ならまだしも、Googleが作り上げたSEOとアドテクに明け暮れることになる世界にも嫌気が差すようになった。我々はユーザーを見ていたいのに、Googleの顔色をずっと伺うことになるビジネスを続け、それでも年々単価が下落する世界には幾らそれに対抗する知識、技術を蓄えようが逆に心が凍りつくばかりであった。

事業はおそらくまだ相当に長くは持つのだろう。しかし、この代わり映えしない日々をずっと続けるのはそろそろ止めたほうが全てのステークホルダーにとって望ましいことなのだろうという思いに至った。

そこで、私はOSDN社を手放すことにした。今のコミュニティの価値を損なうことなく、さらにもっとOSDN社の事業を成長させられると言ってくれるところへ会社を譲ろうと。

2017年早々に私は動き出した。幾つかのオープンソースに理解がありそうな企業をリストアップし、売り込みをかけた。条件は社員の雇用とサイトの継続程度である。この時、私は一社にほぼ決まったと思い込んでいたが、私が付いていくかどうかで私自身がいろいろと迷ってどっちつかずでいた結果、破談になった。やはり迷いがあると結果は出ないものである。

破談になったものはしょうがないということで心を切り替え、サイトの改善に邁進しようと思ったが、やはり次の展望を見いだすことはできず、2018年まではOSDN.netで更なる進歩はあったものの2019年早々にまた会社の売却に舵を切った。今度は失敗しないよう明確に私の処遇は要求せず、サイトの発展と社員の待遇は譲らないという線で直接と仲介を合わせて探した。トップ交渉を幾多も重ね、秋には私の手元に三つの基本契約書が届いた。

三社のうち二社は特にテック系ではないWebメディア企業だった。何となく米国のDice社傘下時代が不遇だったことを思い出し、本当に社員が幸せになれるのか不安がよぎった。これならまだ単独資本で足掻いたほうがいいかもしれないとも思ったが、金額的には数年ほど充電期間を作れ、起業もできそうな程度で税理士も会社を今売るのはもったいないが金額としては妥当と言っていたラインだった。

ここへ最後に仲介業者経由でアピリッツ社が滑り込んできた。私はSI業者はNGと仲介業者に伝えていたのだがやたらと推してくるので根負けし面談したところ、若いエンジニアを多数抱えていること、プロダクト志向に向かいつつあること等の説明を受け、OSDNの社員の今後を考えるとこのような会社のほうがいいだろうと考え、結局土壇場でアピリッツに決めた。金額は三社で最も安く、さらに仲介業者が固定でフィーを持っていった結果、事後に家族にはひどく怒られることになったが、私がそのまま事業の指揮を取ることになったことでもうしばらくは新しい環境で足掻いていくことになった。

2020年2月1日、OSDN社は全事業をアピリッツ社へ譲渡した。

次回、最終章。

2020年3月 OSDN社の西日暮里オフィスを明け渡す数分前の風景

17. さよなら、OSDN (2021年)

2020年からのOSDN事業だが、私に書き残せることは現時点ではほぼない。とにかく想定外が多かったということぐらいだろう。ただ、元々のOSDN社の社員はこれを書いている時点で全員が彼ら自身の新天地で前向きなチャレンジができているようだ。また、OSDN.netとスラドに関しては次の時代に繋がるようにはしてきてある。何とかお尻は拭けただろう。

2021年10月14日、私はアピリッツ社を退職した。

私は既に次の道を進み始めている。

ずっと心残りだったのは、OSDNという枠組みでのサイト運営とバックオフィスにばかり忙殺され、さらに近年ではほぼ海外の開発者しか相手にしていない状況が続いたことで、元々の志であった「日本」におけるオープンソースを置いてけぼりにしていたことである。タイミングよく縁ができた会社にて私はそこへ注力することになるだろう。奇しくも米国VA Linux社でオープンソース誕生時からの戦略を支えたChirs DiBonaとSlashdot.orgの創業者の一人であるJeff “Hemos” BatesらがGoogle社で与えられた役割と同じ役割をとある会社にて務めることになる。奇遇なものである。

それでは、

さよなら、スラド。さよなら、OSDN。


コラム1: 何故、SourceForge.netはGitHubになれなかったのか?

SourceForge.netがGitHubになれなかったのは何故か?とはよく見かける話題である。ついこの間も上記のようなツイートをしたところタイミングがうまく合ったのか割と話題になったようだが、多分忘れた頃にまた同じことを言われるのでここで書き連ねておこう。

先ずこの問いに対していつも思うのは、SourceForge.netの全盛期はいつだったのかということを多くの人はそれぞれに異なる見解を持っているということである。オープンソースムーブメントの狂乱の時代を思い出す人もいれば、漠然とGitHubの前はSourceForge.netと言い切る人もいる。どちらもまあある意味では正解で、SourceForgeの全盛期は、オープンソースの開発という側面が強いサイトとしては1999年から2002年まで、オープンソースのダウンロードという側面が強いサイトとしては2008年から2012年あたりが全盛期になるのだと思う。この2回の全盛期を何となく連続させて考えるとGitHub以前はSourceForge.netだったように思えてくるのかもしれないが、よく考えてみればGitHubはGitというソースコードホスティングのサイトであり、SourceForge.netのCVSによるソースコードホスティングの全盛期は2002年頃までに終わっており、その連続性は特にないというのが私の見解である。

CVS時代というものがあるとすればSubversion以前ということになるが、この時代はオープンソースプロジェクトはCVSでコード管理していた… というわけではない。CVSを好む人達というのはそう多くはなく、一般的なソースコード管理ツールを使わない者さえもいた。CVSを使っていたとしてもセルフホストするほうが多かっただろう。CVSを使い放題にできたサービスとしてSourceForge.netが圧倒的最大だったことは間違いないが、覇権を握っていたかのように言われると、ぶっちゃけ私は内心では引いてしまうところがあるのだが、他になかったのだからそうなのだろう。

米国VA Linux社のクラッシュとSubversionの普及期開始は大体同じ頃ではあるが、この後の数年間にはSourceForge.netには全く新規の投資はされず、他サービスやセルフホストにソースコード管理という部分では地位を奪われることになった。SourceForgeのGPL時代からの派生やTrac、Redmineといったセルフホスト用のForgeツールの普及もあったし、Google Codeが2006年に開始されたことも大きく、SourceForge.netがSubversionに対応した時には既に数多く存在するソースコードホスティング手段の内の一つになっていたとするほうが妥当だろう。確かに登録プロジェクトやユーザーはこの頃もどんどん伸びていたが、そこに置いてある成果物が欲しいユーザーがいるので比例して伸びていったのであって、SourceForge.netで登録するが開発は別の拠点にするというパターンがこの時期に固定化した。日本語ではSourceForgeのサクセスストーリーと題された原文2007年の記事からそれを感じとることができるだろう。

この直後にはGit、Mercurial、Bazaarの分散型リポジトリの時代に入るが、各ツールそれぞれに合ったホスティングツール、サイトがどんどん乱立し、日米SourceForgeも割と早くに全てに対応してはいるが、その分散型の領域で存在感を出すことはなかった。そもそもこの時代で既に日米共に必要なレベルでの分散型リポジトリへの対応は行うが、各ツールの専門のサイトまでの機能は追わないとお互いに考えていたと思う。分散型リポジトリが話題になりはじめた頃は「ひょっとして一番面倒なリポジトリサーバー運用から解放されるということか?」と本気で社員に尋ねたことは覚えているし、GitHub、Bitbucket、Launchpadを筆頭に各ツールで専門性を持ったサービスが揃ってからはその手のサービスとの連携を重視したほうがいいと米国に提言していたことは確かである。2009年に米国のCEOに提案した次世代SourceForgeのスライドではリポジトリの直上に”Cooperation with Outside Sites”(外部サイトとの連携)と書いているが、まさにこのことなのだ。

とどのつまり、SourceForgeは日米共に最初期から最新の開発ツールを提供することもなかったし、モダンな開発手法を提言することもなかった。そもそも、オープンソースプロジェクトが確保に困っているリソースを支援するのがSourceForgeの役割であるわけで、そのポリシーに沿って無料で最低限のプロジェクト運営に必要な道具が揃ったスペースをコミュニティのために用意し続けてきただけである。なお、リポジトリに限らず、イシューやフォーラム等は同じようにもっと高機能なツールやサービスが揃ってきたところで利用は下火になったわけだが、このスペースで用意した機能の中では原始的機能であるファイルリリースやWebホスティングに関しては他にわざわざ踏み込もうとする企業は現れず、そこを提供し続けてきた結果、二回目の最盛期をSourceForgeは迎えることができたわけだ。

ただ、その最盛期における奢りから次の何かの手段をうつことはなく、集まったコミュニティの成果物を禁じ手で売上に結びつけた結果が今の惨状につながっているのである。

GitHubに関しては、分散型リポジトリがほぼGitに収斂し、さらにクラウド時代になったことによりセルフホスト勢がほぼいなくなったことで現在のような巨大なエコシステムに繋がっているのだろうけども、このような流れが分断されていることからGitHubの存在とSourceForge.netの凋落を結びつけることには私としては違和感を感じるのである。まだMercurial推しだったGoogle CodeやBitbucketをGitHubと比較するほうが意味があるような気はするが、まあ一番最初のForgeであったSourceForgeにはそれだけ当時のインパクトがあったし、今も生き残っているということも大きいのだろう。

ただし、単純に「SourceForge.netが凋落した理由は何か?」と言われれば、下記のようなことが言えるだろう。

  1. 頻繁に変わった経営体制

2015年の日本のOSDN社の独立決定直後にTwitterに投げたこの投稿が真理を示していると考える。この記事全体を最初から読んでも分かるが、経営陣交代が繰り返されるたびに戦略の混乱や士気低下が起こるというのが日常になっていた。これで現在もサイトが残っているのだからある意味大したものである。

SourceForge.netには開発ホスティングとダウンロードホスティングという二回の最盛期があったと先に述べたが、その二回の最盛期を終わらせたのも結局はこの経営陣の退陣である。

先ず、2002年に米国VA Linuxの創業者だったLarry Augustinが会社を去った。前年のクラッシュで既に多くのモノを失っていたが、そもそもLarry AugustinというDebianを愛し、意図せずにうっかりとオープンソースという言葉を生み出す場を作ってしまったフリーソフトウェア好きおじさんが効率良くオープンソースプロジェクトを支援するための基盤を作ったのがSourceForgeだったわけで、彼と何人かの主要なクルーがいなくなり、開発予算も消えてしまえばどうにもならない。この時はオープンソースという言葉を振りかざす者を排除する株主からの圧力しかなかったのだ。

また、最初の大きなクラッシュでも何とかSourceForge.netを立て直したのは何人か残ったクルーやSlashdot.orgのJeff “Hemos” Batesらの尽力によるものだと考えるが、せっかく2006年から2009年にかけて積み上げてきたダウンロードを中心として立て直したサイトは、2010年の突然の会社上層部総退陣によってオープンソースコミュニティの思いを直接感じ取れる体制ではなくなってしまった。結局、その後のサイトのアドウェア等の問題とそれに続く2015年のGimpハイジャック事件からの大炎上はここに伏線があった

  1. テクノロジーメディアとしての広告モデルの限界

SourceForge.netはVA Linux社で生まれたサイトだが、すぐに子会社である米国OSDN社へ譲渡されている。で、当時のSourceForgeはそのOSDN社の中心的サイト… ではなかった。開始当時は流石にSlashdotのほうが規模は大きいし、Freshmeat、Themes.org、NewsForge.comなどの当時の定番サイトの他、ThinkGeek.com、AnimationFactoryなどのEコマースサイトもあった。他にももう少しライトなテクノロジー分野をカバーするWebサイトが7,8個存在していた。

このようなサイトを保有していた米国OSDN社は当然のように広告を主体とするWebメディアの会社だったわけだが、その中で一つだけ突出して運用コストが高く、広告も掲載しにくいサイトであったのがSourceForgeであり、如何にトラフィックの急成長を見せていても利益になりそうもないのでどうしても改善への投資は後回しにならざるを得ないということだったのだと思う。そもそも彼らは成長を示すことで投資をお代わりできるスタートアップではなく、米国VA Linuxの破綻という経緯によって上場会社になってしまっていたのだ。今思うと絶えず人月不足だったのによく継続できたと思うが、まあそれは結局オープンソースという言葉を生み出したことへの意地もあったのだろう。

米国と同じことはライセンス契約を受けて同じモデルであった日本側も状況は同じであり、結局は広告を中心としたWebメディアビジネスだったというのが成長の足枷であったかもしれない。広告ビジネスの場合、売上面に関しては営業と編集の体制さえしっかりしていれば小さめのメディアでも割としっかりした売上を出すことができる。ただ、ある一定規模以上になろうとすると上限が見えてくるのである。広告ネットワークに頼ればいいという論もあるが、日米のSourceForgeをコストをAdSenseのようなものだけで賄えた時代は一度もなかったわけで、SourceForgeで広告を売るためには記事コンテンツもセットにして、一般媒体のように広告を売り歩くしかなかった。なお、日本でjapan.linux.com、Open Tech Pressが最終的にOSDN Magazineとなったのはそういった営業的事情であるが、米国のほうは本筋で書いたようにもっと安易な方向に流されてしまった。

広告モデルを止めて何らかの課金を導入すればいいという論もあると思うが、オープンソースが前提のサイトであるために有料にできそうな機能もないし、タイミング的には開始直後の初期に実行するしかなかっただろうが、当時だと技術的にもユーザーの心情的にも無理があり過ぎただろう。

  1. イノベーションの欠如

1990年代頃、オープンソースプロジェクトへの支援と言えばサーバーマシンの提供やネットワーク回線の提供といったことが定番だった。SourceForgeはこれをWeb上に持ち込んだに過ぎない。オープンソースプロジェクトがすぐには揃えにくかったサーバーリソースを提供するのがSourceForgeの本質であり、プロジェクト自身でリソースを揃え出せばその場から出ていく。そういった場を用意するだけなので、全ての個々の提供要素は最高のモノではない。当時はもっと優れたBTSもフォーラムもあったろうし、自らより良いサーバー環境を用意するプロジェクトも多かった。これが「オープンソースの揺りかご」と評されていた理由である。そこで生まれたオープンソースは成長し、いずれそこから出ていく。これは私が米国側から何度も聞いていたことである。

とどのつまり、SourceForgeとは多くの一般的なオープンソースプロジェクトが足りないと思っているリソースを無料で提供するサービスであり、オープンソースプロジェクトに優れた開発手法や新しい概念を提供する仕組みではない。既に枯れている仕組みを提供するだけである。

このような姿勢は大昔のメールの返答を何日も待つような牧歌的な時代であれば問題はなかったと思うが、少なくとも今の時代を勝ち抜く考え方ではないだろう。私はこのような姿勢は好きだったが、営利事業の考え方ではない。ファイルダウンロードという他社が追従しそうもない領域があったことでビジネスとして成立してしまったが、経営問題等がなかったとしてもこの姿勢ではどこかで行き詰まっただろう。なので、私はXmithy計画のような新サービスを考えていたし、その前にも日米において2009年-2010年あたりにこれを変えるチャンスがあったわけだが、株主の支持がなければどうにもならない。


これら以外にも問題はあったのだろうが、近年に隆盛となっているオープンソースエコシステム内で重要な基盤を担うようなサービスやプロダクトにはこれらの三点のような問題がほぼない。SourceForgeは1999年と圧倒的に早い時期にオープンソースを支える役割に乗り出したアドバンテージはあったと言えるかもしれないが、Gitホスティング界隈でも最後発に近いと思われるGitLabが一兆円を超える上場をつい先日に達成したのはいろいろ示唆するところがあるだろう。

なお、OSDN.netに関しては適切な運営費をかけていけば凋落しているとは言え未だに大きなサイトであるSourceForge.netの規模に追いつくことは可能だろう。ただ、今のクラウドにどっぷりと最適化が進んだこの時代で世界中からローカルへのダウンロード需要をかき集めるのは意味があるのかどうか考える必要がある。初心に戻ってオープンソースコミュニティのために何ができるのか考えた上で新機軸に向かっても良いだろう。オープンソース開発には3つのD、Develop(開発)、Distribute(配布)、Discuss(議論)が必要であり、この場を我々は提供していくと2000年に米国OSDN社は定義し、それを日本のOSDN社は引き継いだ。次の世代にはそれを踏まえつつ、新しい方向を考えてもらいたいと切に願う。

2000年定義のオープンソースに必要な3つの「D」

コラム2: 何故、スラドはずっと変わらないのか?

確かにスラドはSlashdot Japanとして開始された2001年からほとんど変化がない。米国のSlashdot.orgも1997年からさほど変わっているようには見えない。なので、この長編回顧録ですらスラドへの言及はほとんどない。まあ、変化がないからね。

サイト全体の構成、ストーリーの配置、一日の記事本数といった運営側で変えられそうな部分はほとんど変化がないし、そこに住み着いている人々の性質や規模も大した変化がない。スラドを開始した初年度から「過疎ったな」とか「質が以前より落ちました」とずっと言われ続け、続々と引退者が出ていたはずなのだが、何故か常駐している方々の性質や規模感は20年間あまり変わってないという不思議なサイトではある。今年になって下記のようなコメントがあったが、確かにこの20年間ずっとコメントの数は変わらないし、質も変わらない。

ページビューについてはここのところ下がっているのだが、実はそこはGoogle検索だけで説明がつく。今のGoogle検索のアルゴリズムにスラドは絶望的に合っていないのでサーチからのトラフィック、特にコメントへの直接流入は以前と比較すればほぼ消えているのである。けれども常駐者は入れ替わりはあっても数はさほど変わらない。相変わらず「昔のほうが良かった」と言っている。編集長も初代Oliver編集長、二代目mhatta編集長、三代目hylom編集長と変わっていっても、「typoがひどい」と言われるのも変わらない。(なお、typoは指摘コメントがあれば問題ないという当初のルールだったのだが、あまりにも気にする人が多いので文意への問題があるなら気がついた人が追記か修正ぐらいになった。)

米国のほうはHacker NewsやRedditに役割を奪われている感もあるし、2015年のGimpハイジャック騒動からの身売りまでの混乱でクルーがいなくなったこともあって随分と小さくなっている。けれども常駐者によって今の規模は維持していくように見える。

こうなっている理由は正直分からない。2010年ぐらいまでは何とか折を見てテコ入れと考えていたし、何度かは思いついた施策を打っていた気もするが、手間をかけても特に変わらないし、米国側も「周りがどう変わろうがオレ達は変わらない」と言っていたのでまあそれでいいのだろうと段々と思うようになってしまった。そのあたりからはサイト運用上問題が出るまではインフラ面では特に大きな改修はしなくなっていると思う。心残りになっているhylom元編集長が作りかけの新システムだが、これも現システムを動かし続けるのは限界だと判断しての開発だったのだけども、今もtestに置いてある。

本当によく分からないが、おそらくスラドはあるゆる面が絶妙なバランスというか、ダメになる前にうまくそこで留まっているサイトなのだろう。「最初はその領域で尖った方々が集まり、それを目当てに一般の人々が集まり、それらの一般の人の声が強くなると初期の尖った方々が去り、つまらない何かだけが残る」というのは古来ではメーリングリストや掲示板、現在では次々に出てくるソーシャル的なサービスまでに見られるユーザーサイクルの類型のようなものだが、スラドに関しては初期からずっと微妙な塩梅のところで止まっている気がする。それはそれで凄いことだが、正直それでは怖くて手の出しようがない。もうサイトを誰かが止めるまでこうなのかもしれない。

まあ、全くよく分からないとしか私には言えないのだが、私にとっては米国のGeek達と出会い、日本のアレゲな人々とつながったサイトであり、そもそもこれを立ち上げていなければ今の全てがなかったのである。変化がないとはここまで書き連ねてきたが、日米のWikipedia記事に書いてあるような事件はよく記憶に残っているし、編集クルーに起きた事件もいろいろあった。CmdrTacoがサイト上でプロポーズした事件もあったし、Slashdot上で自宅が燃えたことを知らされたことのあるHemosが日本でも火事に遭遇するという事件もあった。9.11の時も3.11の時も日米は繋がっていたし、Oliverを筆頭として日本側のクルーにもいろいろあった。ただ、それらは私としては心に大切に留めておくもので歴史として残す性質のものではないだろう。

ともかく、次世代を支えるクルーと運営者には今のよく分からない愛すべき存在の本質を変えぬまま、うまく発展に導いてくれることを願うばかりである。

これだけで終わるのも寂しいので、スラドのお気に入りのMotd (Message Of The Day)でも5本ほど載せて締めておこう。今はサイトのフッター部に出している「アレゲはアレゲ以上のなにものでもなさげ — アレゲ研究家」のような格言が出てくるアレである。多くは私が追加したものだと思うのだが、何か高尚な基準があったわけではなく、ircあたりで流れたものを思いついたタイミングで拾い上げていただけである。なお、現在のMotdが全部で42件登録されているのは、太古の昔にある官僚が「日本発のオープンソースソフトウェアは42件」という発言をしたことにちなんではいない。

  • 人生unstable — あるハッカー
  • 日々是ハック也 — あるハードコアバイナリアン
  • 普通のやつらの下を行け — バッドノウハウ専門家
  • 未知のハックに一心不乱に取り組んだ結果、私は自然の法則を変えてしまった — あるハッカー
  • 開いた括弧は必ず閉じる — あるプログラマー

付録:年表

1998年
2月、「オープンソース」という用語がVA Research社で誕生
1999年
日本Linux協会設立
5月 VA Linux Systemsへ社名変更
11月 SourceForge.net開始
12月 VA Linux Systems、NASDAQへ上場し、初日上昇率698%の記録樹立
(佐渡、金沢で悶々と)
2000年
2月、VA Linux社、Andover.netを買収
8月、Open Source Development Network(OSDN)社を子会社として設立
9月、VA Linux Systems Japan株式会社設立
11月、佐渡がVA Linux Systems Japanへ入社
2001年
Slashdot Japanが開始
VA Linux Systems、ハードウェア等主要ビジネス撤退
2002年
VA Linux Systems Japanが住友商事子会社へ
SourceForge.JP開始
VA Linux Systemsの創業者 Larry AugustinとEric Reymondが会社を去る
VA Linux SystemsからVA Softwareへ社名変更
2004年
米OSDN社がOpen Source Technology Group(OSTG)に社名変更
佐渡がガラパゴスを提唱
2006年
SourceForge.net、Subversionに対応
SourceForge.JP、Subversionに対応
2007年
VA Software、プロプライエタリツールビジネスを売却
子会社OSTGががVA Softwareと合併し、事実上 OSTGが親会社に
VA Linux Systems JapanからOSDN関連事業がサンブリッジへ売却されOSDN社として分離
2008年
SourceForge.JP、分散型リポジトリに対応
SourceForge.net、分散型リポジトリに対応
2009年
VA SoftwareからGeeknet社へ社名変更
Geeknet社CEOと佐渡がMBAの試合をVIP席で観戦
2010年
5月、サンブリッジから佐渡がOSDN社全株式買い取り
8月、Geeknet社、経営幹部総退陣
2012年
Geeknet社、ThinkGeek以外の全ビジネスをDice社へ譲渡。Dice社Slashdot Media部門へ。
2013年
SourceForge.net、DevShare(アドウェアプログラム)開始
2015年
5月、Dice社Slashdot Media部門とのライセンス契約解除
Slashdot Japanはスラド、SourceForge.JPはOSDN.jpへブランド変更
Geeknet社がGamestop社へ身売り、VA Researchから続いた法人消滅
5月、Gimpハイジャックによる炎上事件発生
2016年
OSDN.jpからOSDN.netへ移行
Dice社、Slashdot Media部門を売却
2020年
2月、OSDN社、アピリッツへ全事業を譲渡
11月、OSDN社の法人格消滅

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。